『北楯大堰』が世界かんがい施設遺産に認定・登録されました
    
   〈青鞍の碑〉

    利長が大切にして

    いた鞍を投げ入れ、

    荒れ狂う川を鎮め

    たとされる。


現在の北楯頭首工

 さらに、1778年には北館大学助利長の功績をたたえる領民により、社殿が建てられ、水神として祀られました。その後

も農家の組織を中心として、社殿の整備、改築、神社への昇格などが進められ、「北舘神社」として1973年に狩川城跡近

くの現在地(山形県東田川郡庄内町狩川字笠山400)に新社殿が建てられました。神社では、毎年5月に例大祭が行われ、

地元住民が集い遺徳をしのんでいます。

〈殉難十六夫慰霊塔〉

・名称:北楯大堰(きただておおぜき)

・施設の所在:山形県東田川郡庄内町清川地内ほか

・供用開始年:1612

・かんがい面積(受益面積):2,880ha

・水路延長:4.9q(北楯頭首工〜二俣分水工)

・流域名:最上川水系立谷沢川

・所有者:農林水産省

・管理者:山形県

・操作者:最上川土地改良区

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歓喜寺前の北楯大堰(現在)

整備された導水路(現在)

歓喜寺前の北楯大堰(改修前)

玉石積の導水路(改修前)


北楯大堰の過去と現在
例大祭(北舘神社)
現在の北舘神社
昭和初期の北舘神社
現在の北楯大堰位置図
北楯大堰開削後にできた村落
承応4年(1655年)

狩川大堰(北楯大堰)絵図

 平成30813日にカナダ・サスカトゥーンで開催された国際かんがい排水委員会(ICID)国際執行理事会において、『北楯大堰』を世界かんがい施設遺産として登録することが発表されました。

 1612年に着工した本工事は、山裾での掘削では地すべりにより16

の人夫が犠牲となる事故が発生したり、崖に隣接する最上川の埋め立

てでは、激流のため土石が流され、何度も埋め立て作業を繰り返した

りするなど困難を極めました(事故が発生した場所には「殉難十六夫

慰霊塔」、激流で何度も埋め立てた場所には「青鞍の碑」が設置され

ています)。

 しかし、そんな困難な状況の中、暗夜には提灯の明かりをかかげて

高低差を測量する高精度の測量技術や正確で綿密な設計、そして

7,400人もの作業員を動員するなどして、わずか4カ月の短期間で約

10qの水路を完成させました。

 1600年頃まで、庄内平野に位置する本地域は、扇状地の平坦

地形でありながら隣接する河川より高い位置にあったため、水利

の悪い不毛の土地でした。

 しかし、1601年に狩川城主に赴任した北館(きただて)大学(だいがく)助利(のすけとし)(なが)(1548

1625年)は、困窮した領民を救うために10年にわたる水田開発調

査を行い、山を隔てた地域の上流に位置する(たち)谷沢(やざわ)(がわ)から取水し、

山際を迂回させて導水する農業用水路を建設する計画を立てまし

た。

※山形県内では初めての登録施設となります。

※図をクリックすると拡大図表示

北 楯 大 堰

詳しくはこちら 農林水産省「世界かんがい施設遺産

 本水路を基にその後も水路の建設を進めた結果、約5,000haが開田し

57
年間で46の村落が新たに開村されました。

 この広大な受益地内に計画的に用水を供給する役職を設置することに

より、地域の米収穫量は約7倍に増量し、稲作農家の安定した収入を確

保するだけでなく、農業を中心とした経済発展と農村形成に大きく貢献

しました。

 用水供給の管理は当時の行政機関が行っていましたが、1885年からは

農家が負担する管理組織が設立され、現在は土地改良区として地域住民

と協同で適切な維持管理が行われています。

北館大学助利長の像
施 設 概 要

明治後期の北楯頭首工

北楯大堰の概要